引退後に歯科医師に転身した異色のサイ・ヤング賞投手

日本の野球で言えば沢村賞に相当し、メジャーリーグにおいてシーズンで一番活躍した投手に贈られる賞にサイ・ヤング賞というものがあります。過去にロジャー・クレメンスやランディー・ジョンソンといった名だたる選手らも受賞した、球界最高のその栄誉を手にしながら、引退後に歯科医師に転身し、開業医として長らく地域の歯科医療に貢献した人物がいます。その名をジム・ロンボーグ(Jim Lonborg)と言います。

ロンボーグは1942年4月16日アメリカ・カリフォルニア州に生まれ、リトルリーグで野球を始め、大学卒業後の1963年にボストン・レッドソックスと契約、2年後の1965年にメジャーリーグデビューを果たします。

メジャーデビューの年から右投げの先発投手として31試合に登板するなど、物怖じしないピッチングスタイルで頭角を現しながらも、物腰の柔らかく紳士的な態度から「ジェントル・ジム」というニックネームで呼ばれ、レッドソックスのファンに親しまれるようになります。

メジャー3年目の1967年、レッドソックスは10チーム中9位という成績で前年のシーズンを終え、リーグ優勝は到底無理であろうという下馬評の中で開幕を迎えます。それでもチームの主砲カール・ヤストレムスキーがその後45年間現れなかった三冠王を獲得する活躍でチームをけん引するなどし、リーグ戦終盤には2試合を残して4チームが1.5ゲーム差の中にひしめき合う混戦に持ち込み、最終的にぎりぎりのところで他チームを制しアメリカンリーグのリーグ優勝を果たします。

このシーズン、レッドソックスの打における主役はその三冠王ヤストレムスキー、一方の投における主役こそがロンボーグでした。この年、ロンボーグは39試合に先発し22勝9敗で最多勝のタイトルを、また246奪三振で最多奪三振のタイトルを獲得するなど圧倒的な成績を残し、シーズン終了後の記者投票の結果、投手最高賞であるサイ・ヤング賞に選出されました。

ナショナルリーグとアメリカンリーグ双方のリーグチャンピオンが対決し、その年のナンバーワンチームを決めるワールドシリーズでも、結果的にレッドソックスはナショナルリーグ優勝チームのカージナルスに敗れてしまったものの、ロンボーグは全7試合中3試合に先発し2勝1敗とフル活躍しました。

その後ロンボーグはミルウォーキー・ブルワーズを経てフィラデルフィア・フィリーズに移籍後、1979年にメジャーリーグでの15年のキャリアに終止符を打ち、37歳で現役を引退します。キャリアを通じて先発投手として活躍し、メジャー通算成績は157勝137敗、防御率3.86と、超一流といって差し支えない成績を残しています。

メジャーリーガーになる前のロンボーグはスタンフォード大学の医学部進学課程に在籍しており、もともと将来は整形外科医を志望していました。選手引退後、彼の妻はそんな過去を持つロンボーグに 365日24時間、患者の容体急変等に備えていなければならない医師ではなく、それよりは生活に自由の利く歯科医師になってはどうかと勧めます。この妻の勧めもあってロンボーグはレッドソックスの本拠地ボストンにあるタフツ大学歯学部に入学、1983年に卒業し、41歳で歯科医師となります。

その後、彼はレッドソックスのホーム球場であるフェンウェイパークから50キロメートルほどのところに歯科医院を開業し、2017年に引退するまでの34年間にわたって、そこで歯科医療に従事しました。

彼ほどの実績のある野球選手であれば野球の指導者や解説者として第二のキャリアを歩み始めることもできたと思いますが、あえて歯科医師の道を選んだ理由の一つとして、妻と子供との時間を大切にするために、遠征などで家族との時間が少なくなりがちな職業野球の世界より、家族との時間が安定して取れる歯科医師の道を選んだという事情もあったようです。

ロンボーグは若い頃から医療に深い興味を持っていたことから、患者さんと触れ合い、ケアをする中で、自身の技術に科学技術を取り入れることができる歯科医師の仕事が大好きだったと言います。彼は、野球と歯科医師の仕事のどちらが良いか単純に比較することはできないが、日頃より診療所に出かけることを楽しみにし、それはまるで毎朝先発投手として野球場に行くような気分だったと述べています。

日本でもプロスポーツ選手の引退後の経済的困窮や就業困難などが問題としてメディアに取り上げられ、その中でセカンドキャリア形成の重要性がクローズアップされることもありますが、ロンボーグのようなメジャーリーグの一流選手であれば本来金銭的な問題もセカンドキャリアの心配もそれほどなかったはずです。メジャーリーグという華やかな世界から身を引き、一旦全てをリセットし、40歳を手前にしてゼロから学びなおして新たなキャリアをスタートさせるということは、例えその試みが歯科医師になることではなかったとしても、とてつもないことだと思いますし、凡人が簡単にできることではないと思います。

ドクター・ジム・ロンボーグは2021年現在もご存命で、今もフェンウェイパークほど近くに住居を構え、時折球場にも顔を出しつつ、旅行やゴルフ、ガーデニングなどといった趣味を楽しみ、奥様と6人の子、9人の孫に囲まれながら老後という第三の人生を歩んでいるということです。